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100年以上前の焼酎ってどんな味がしたの?|焼酎の今と昔の違いを探ってみた!

コラム

100年以上前の焼酎ってどんな味がしたの?|焼酎の今と昔の違いを探ってみた!

Text : Marina Takajo(SHOCHU NEXT), Taku Itoh(SHOCHU NEXT)
Illustration : Taku Itoh(SHOCHU NEXT)

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大河ドラマや時代劇などで昔の食事や宴のシーンに遭遇すると、ふと「昔のお酒ってどんな味だったんだろう」って思うことありませんか? だって、たとえば少し前の芋焼酎ですら、「芋くさい」なんて言われることも多いわけで。10年やそこらのうちに、さまざまな香味成分の開発によって「これが芋なの?」ってくらい多様な香りの銘柄が続々登場しているんですよ? この進化をさかのぼってみたら、昔の焼酎は、今の焼酎からは随分とかけ離れたものだったんじゃないか、って思っちゃうんです。というわけで、今回は芋焼酎をメインに、昔の焼酎の味について調査! 他のお酒の様子とも比較しながら紹介してみようと思います。

そもそも焼酎っていつからあるの?

わたしたちが飲んでいる焼酎には、約500年の歴史があるといわれています。日本で焼酎が飲まれていたことがわかる最も古い記録は、ポルトガルの貿易商人であったジョルジェ・アルヴァレスがキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルに書き送った報告書『日本報告』の中にあります。この報告書はヨーロッパに伝わった初めての本格的な日本の情報をまとめた書物。ここに、天文15年(1546年・戦国時代)に、薩摩(現在の鹿児島県)の山川で’’米焼酎’’が飲まれていたことが書かれています。いまや芋焼酎の本場・薩摩ですが、このときはまだサツマイモの伝来以前。薩摩でも米焼酎をつくっていました。

500年前の焼酎は、清酒の製造法をもとにつくった米焼酎だった!

焼酎のなかで米焼酎が最初につくられたのは、清酒の製法を参考にしていたから。当時の米焼酎は、清酒と同じ黄麹菌による麹をつくり、これに蒸米と水を加えて発酵させ(どんぶり仕込み)て、その後に蒸留を行っていました。

どんぶり仕込みとは、主原料・麹・水を全て入れて一度に仕込む製法のこと。

清酒は、まず米麹と蒸したお米で酒母をつくり、低温の環境で酵母を増やして発酵。ここに米麹と蒸米を加え、最後にこれを絞ってつくります。もともと薩摩でも、京都の清酒づくりを真似ようとしたのですが、南九州の温暖な環境にくわえて、クーラーも冷蔵庫もない時代。清酒を10~15℃の低温で発酵させるのは至難の業でした。

そのため、製造・貯蔵の過程で腐造(※1)が起こることも多く、おいしい清酒づくりは困難を極めました。そこで人々は、米麹と蒸米を一緒に加えて発酵させたものに、蒸留工程をつけ加えたというわけ。その結果、アルコール度数をぐんと引き上げることができ、腐造もしにくい保存可能な蒸留酒・米焼酎がついに誕生! 琉球でも同じく米を使って泡盛がつくられ、保存可能な特性をいかして古酒文化を確立していったのです。

(※1 腐造・・・バクテリアなどの微生物によって汚染されたせいでアルコール発酵がうまくいかず、発酵効率の低下が発生し、お酒の味が酸っぱくなったりニオイが悪くなったりすること。酒造りにおいては腐敗とは呼ばずに腐造という言い方をする。)

芋焼酎の登場は約300年前!

芋焼酎に欠かせないサツマイモの原産地は中南米。これが1700年代初頭にフィリピンに伝えられ、中国・琉球王国を経由して薩摩に伝来しました。台風常襲地帯で米づくりに向かず、火山灰に覆われて栄養分が乏しい南九州の土壌。そんな土壌でも根を張るサツマイモは、この地方の貴重な食糧に。こうした流れから、米の代わりに原料にサツマイモを使った芋焼酎が誕生したといわれます。(薩摩に100年ほど先だってサツマイモが伝来した琉球王国でも、王族への献上品である泡盛とは別に、庶民が気軽に楽しむ“イムゲー”という独自の芋焼酎をつくっていました。)

しかし、これまでつくっていた米焼酎と同じ方法で芋焼酎を製造しようとしても、うまくはいきませんでした。その理由は米と違って水分量やデンプン量が多いサツマイモは傷むのが早く、さらにサツマイモは蒸すと甘くなるためです。芋を発酵させようとするとその糖分に雑菌が繁殖し、結果的に腐造となることが多かったのです。世界各地で栽培されているのも関わらず、サツマイモを原料にしたお酒が極めて少ないのはこういった理由からといえます。

今と昔の芋焼酎はどう違う?

後述しますが、芋焼酎の味が劇的に進化するのは約100年前あたりから。それ以前=昔の焼酎と今の焼酎では、どんな違いがあるかをまとめてみました!!

今と昔の焼酎の違い① 約100年前は、米麹の量が今よりずっと少なかった!

江戸時代から明治35年(1904年)あたりまで、薩摩藩では芋焼酎をつくる際に、米焼酎と同じくどんぶり仕込みを行っていました。蒸した米麹とサツマイモを甕に同時に入れ発酵させるのですが、この時の米麹とサツマイモの量の比率は、今と昔で違いがあるようです。現在、米麹と芋の割合は重量比で米麹20:芋100が一般的。ところが昔の薩摩では米が大変貴重でしたから、芋100に対して江戸時代だと米麹7、明治時代だと米麹12。米の割合がかなり少なめの設定でした。これだけでもかなり今の焼酎と風味が変わりそうですね!

今と昔の焼酎の違い② 黒麹の発見までは黄麹が一般的だった!

現在の焼酎づくりでは、黒麹を使うことが多いですが、前述の通り、昔は清酒と同じく黄麹を使っての仕込みでした。黄麹は、黒麹と違って、微生物汚染を防ぐ効果が高いクエン酸をほとんど作りません。このため当時の焼酎づくりは今よりもずっと微生物による汚染が多く、腐造しやすかったのです。

今と昔の焼酎の違い③ 度数がずっと低かった!

どんぶり仕込みでつくる芋焼酎は、アルコール度数も20程度の低度数の焼酎しかつくれなかったよう。そのため薩摩の人々は低濃度の焼酎を飲み慣れていたそう。この事実が、のちのち大正時代に登場する焼酎のお湯割り文化へつながるきっかけになったと言われています。

今と昔の焼酎の違い④ 昔の芋焼酎は相当芋くさかった!

薩摩の芋焼酎は、江戸時代中期から明治初期に至るまで、大きな技術革新も行われないまま、各家庭で大量生産されていました。芋の傷んだにおいや、今よりも腐造しやすいこともあって、どんぶり仕込みで造られた当時の芋焼酎は『少しくこれを飲めば衣服ことごとくにほふ』(薩摩見聞記(※2))と、相当な芋臭さだったよう……。また、明治41年頃に球磨地方を訪れた作家・田山花袋も、鹿児島の友人に『球磨に行ったら焼酎を飲みたまえ、それは好い焼酎だ。とても此処のとは比べ物にならない』と言われたのだとか。当時の芋焼酎は、どうもイマイチだったことが窺えます。一方、当時は同じくどんぶり仕込みながら、玄米をベースにつくられていた球磨焼酎は、とてもおいしかったよう。田山は『球磨の焼酎は実際何ともいわれない芳烈な味と匂いとを持ってゐた。私は自分を忘れるほど酔った。』と書き残しています。

このように度数や麹、仕込み方法を見てみても、今と昔では随所に違いがいっぱい! 昔むかしの芋焼酎、正直あんまりおいしいとは言えなさそうですが、ちょっと怖いもの見たさで飲んでみたい気もします。

薩摩酒造の〈さつま白波 明治の正中〉は、明治頃の焼酎製造法を再現した芋焼酎で、黄麹を使用。「どんぶり仕込み」で造られています。気になる方は是非お試しあれ!

(※2 薩摩見聞記・・・新潟県出身の小学校教員 本富安四郎が鹿児島に赴任した際に当時の薩摩の様子を記録したもの。明治22年~23年ごろの薩摩の様子を知ることができる。)

焼酎の本格的な進歩は約100年前から!

明治以降、西南戦争、日清戦争、日露戦争と立て続けに大きな戦が続いたのはご存知の通り。国力が弱体化するなか、国は、財政の立て直しを図るべく酒税の取り立てを強化しました。明治半ばにもなると租税に代わり、酒税が国家財政の4割ほどを占める大きな柱となっていきました。さらに明治32年には自家用酒の製造が禁止に。それまで家庭でつくるものだった焼酎が、その後は集落ごとに免許が与えられる共同製造の時代へ突入して、大きな転換期を迎えます。明治末期には、大規模な焼酎の製造場の整理も行われて、零細な製造場が淘汰され大幅に減少。生き残った蔵が技術を向上させ、焼酎はそれぞれの家で作るものではなく「商品」となり、そこから近代化の道を歩んでいくことになりました。

さらに、明治の終わりから大正にかけて、黒瀬杜氏や阿多杜氏など、杜氏制度もスタート。黄麹に代わって黒麹が使われるようになりました。元々泡盛に使われていた黒麹は、腐造を防ぐのに欠かせないクエン酸を生成するので、これが芋焼酎づくりに導入されると安全性や生産性が格段に上がりました! 明治の末には、芋焼酎の製法もどんぶり仕込みから、より清酒の作り方に近い清酒式二段仕込法を経て、大正時代には二次仕込法と呼ばれる現在の製造法が確立されていきます。この製造法は、芋焼酎から球磨焼酎や壱岐焼酎にも影響を与えました。

二次仕込み製法の流れはこちらの記事で詳しくご紹介していますので、あわせてご覧ください!

100年前のお酒ってどんな味だったの?

さてここで、焼酎以外のお酒にも目を向けてみましょう。今から100年前というと日本は大正時代。さまざまな洋酒の輸入やそれらの酒造技術の導入、そして酒税法の導入などが行われた時代です。焼酎に限らず、日本における酒類全般のあり方が変わり始めた時期でした。当時のお酒は、100年前の日本ではどのように認識され、どのような味わいだったのでしょうか? みなさんも普段よく飲むであろう焼酎以外のお酒の100年前について調べてみました!

①100年前の日本酒は、口がひんまがるほど辛かった⁉︎

焼酎と並んで日本の伝統的なお酒である日本酒。現代ではフルーティな香りやお米の甘みを楽しめる銘柄なども増えています。ところが100年前の味わいは今と比べるとかなりの辛口! 甘口と言われていたものですら、現代人が飲んだら口がひん曲がるほどには辛さを感じるといいます。これは技術が未発達だった当時、どうしてもお酒に雑菌が入ってしまうために酸化が進み、今よりも酸量が多かったことが原因と言われます。日本酒の醸造技術は、日清戦争で得たお金を、国が醸造業の近代化のために投資したことで大きな発展を遂げました。醸造技術が上がるにつれて酒質はどんどん安定し、現代の落ち着いた味わいへと進化してきたのです。

②100年前は薬局が「模造ウイスキー」をつくっていた!

ウイスキーが日本に初めて伝わったのは江戸時代。ペリーが黒船で来航した時にもたらしたそう。黒船来航によって日本に伝わったはいいものの、日本での浸透は長い間いまいち……。ウイスキーはとても高価で、一般庶民にはとてもではないが手の届くものではなかったのが一番の理由でした。高価なウイスキーの代わりに庶民の間で飲まれていたのは、ウイスキーを模した「イミテーションウイスキー」なるもの。これはアルコールに香料やカラメルなどで着色や味つけをしたもので、当時はなんと薬局が調合して売っていたようです。これをウイスキーと呼んでいいのか少し疑問ですが……。

日本で本格的なウイスキーづくりが始まるのは1920年代になってから。さらに日本でウイスキーが浸透していくのは戦後です。今や世界5大ウイスキーの産地に数えられる日本ですが、100年あまりでそれだけの品質にたどり着いているのは驚きですね。

③100年前のビールは、今よりも苦くて濃厚だった!

ビールが日本で初めて記録されたのは江戸時代の半ば。当時の文献には「麦でつくったお酒はおいしいとは言えない、なんの味わいもないものだった」という旨の記述があり、当時の日本人の口には合わなかったことが窺えます(笑)。
そんなビールですが、今から100年前には鉄道の開通で流通が発展し、全国に浸透し始めていました。現在の大手ビールメーカーの前身となる醸造所などが誕生した時期でもあり、国内でのビール生産も始まりました。
当時のビール味わいは、今よりもホップを大量に使っていたため、苦味と風味の強いまったりとした仕上がりだったよう。さらに現代よりもビールの粘度が高く、口のまわりにべったりと泡がくっついたといいます。「ビールの泡でヒゲをつくる」って、漫画の世界のコミカルな演出だと思ってましたが、昔は本当にできていたんですね~。

④100年前はワイン=甘いお酒だった!

ワインが日本に伝播したのは室町~安土・桃山時代。当時の書物からワインを指す「珍蛇」や「南蛮酒」に関する記述があり、比較的古い時代に日本に伝わった洋酒になります。

100年前の日本は、国産ワインの製造を試みていた頃。しかし多湿な日本の気候ではワインに適した品種のブドウが育ちにくかいうえ、そもそも焼き魚、漬物、味噌汁といった当時の食卓にワインのタンニンの効いた渋味はなじまない。なかなかの苦戦を強いられてたようです……。
そんな中で、なんとかワインを飲んでもらおうとと生み出されたのが蜂蜜と漢方薬を入れた「甘味ワイン」です甘くて飲みやすい甘味ワインはまたたく間に世間に受け入れられ、ワインといえば甘味ワインを指すほどになっていました。「ワインは甘いお酒」という認識があまりに浸透してしまい、戦後の日本で輸入ワインを売り出すのに相当な苦労をしたそうです。

時代とともに進化し続けるお酒

色々なお酒の昔の姿を見てきましたが、いかがでしたか? いま目の前にあるお酒も、時代とともにたくさんの人の手によって長い年月をかけて進化してきました。気候風土に合わせた変化はもちろんのこと、戦争による影響があったり、税制の変化での革新があったりと、お酒と歴史とは切り離せないものなのだということがよくわかります。背筋をぴしっと伸ばし、しっかりお酒と向き合いたくなりますよね。とすれば、今から100年後のお酒は一体どのような姿になっているのだろう……? グラスを傾けながら、あれこれとお酒の未来を語り合うのも、面白いかもしれません。

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