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「一生をかけて焼酎に恩返しをする」本格焼酎専門店いぐれっく店主倉本雅史さんが抱く想いとは

インタビュー

「一生をかけて焼酎に恩返しをする」本格焼酎専門店いぐれっく店主倉本雅史さんが抱く想いとは

Text & Photo : Yuki Arai

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大阪市と京都市の中間に位置する大阪府茨木市。JR茨木駅より徒歩三分程度の場所に「本格焼酎専門店 焼酎Bar&Diningいぐれっく」はある。2002年4月9日に焼酎をメインとした飲食店としてオープンした老舗店だ。

店主の倉本雅史さんはお店を経営する傍ら、東京ウイスキー&スピリッツコンペティション(TWSC)焼酎部門の審査員を務めるなど、焼酎市場の可能性を広げ、業界の間口を広げるための活動を積極的に行っている。

これまでいくつかのブームを経て徐々に市場を拡大してきた焼酎だが、開店当初の時代、大阪で焼酎を日常的に飲用する人は珍しかったという。そうした時代を乗り越え、現在に至るまで本格焼酎を提供し続けるお店にはどんなドラマが詰まっているのだろうか。いぐれっく店主の倉本さんにこれまでの歴史、そして焼酎業界に対する想いを聞いた。

店の仕入れを通じて焼酎の世界へ

店の仕入れを通じて焼酎の世界へ
所狭しと焼酎瓶やグッズが並ぶ店内 基本的な内装はスナック時代のまま 

ーー今年(取材当時2024年)22周年を迎えますが、お店の開店当初のことをお聞きしてもいいでしょうか?

不思議と思われるかもしれませんが、このお店に母親の手伝いで入るまで飲食業はおろか、焼酎すら飲んだことがありませんでした。人見知りが強かったことから、10代の頃からトラック運転手をしていたんです。

ーー今の状態からは想像できないですね。どうして飲食業に携わるようになったのですか?

元々このお店は2000年から母がやっていた和風スナックのような店だったんです。でもしばらく苦戦していたらしく、僕が運送会社を辞めたタイミングで「手伝ってくれ」と誘われました。運送業で転職する予定だったのですが、どんな仕事なのかという興味もありやってみたんです。一時的に手伝うくらいの気持ちではじめたのが、飲食業のスタートですね。2001年の10月末の頃でした。

ーー飲食業は母親の誘いがきっかけということなんですね。焼酎との出会いはどういった経緯だったのでしょうか。

焼酎にこだわりがある白菊屋という酒屋の松尾さん(当時社長)と母が知り合いになり、僕が仕入れを頼まれたんです。その松尾さんはかなり個性的な方でした。仕入れに行くたび椅子に座らされ、松尾さん特製テキストで焼酎の造り方、伝統、歴史、文化を毎回一時間くらい勉強させられるんです。僕自身、当時は焼酎も飲んだことなかったですし、母に頼まれて仕入れに行っているだけなのに毎回辛い思いをして(笑)そこで僕が思いついたのが、仕入時の勉強時間を短くするために予習していくことです。

ーーなるほど。それは松尾社長もすごく喜ばれたのでは。

「お前は見込みがある!」といった感じでめちゃくちゃ気に入られてしまって、逆に勉強時間が長くなってしまいました(笑)

次第に売ってくれる焼酎もお店に並んでいないものになり、さらに焼酎の雑誌などもくれるようになりました。焼酎を飲み、雑誌を読んでいたら蔵元の方に会ってみたい、蔵に行ってみたいと少し興味が湧いてきました。

そのあたりのタイミングで長年焼酎造りを休んでいた万膳酒造さんが、霧島の山奥で焼酎造りを再開したんです。そしてある日突然、松尾さんと一緒に万膳酒造の万膳氏がお店を訪ねてくれました。造り手に初めて会ったことや、勉強を続けていったこともあり焼酎の世界にハマっていったんです。

松尾さんからは焼酎の提供方法についても色々教えていただきましたね。当時は水割りでも普通の水と氷で作っていました。でも松尾さんから「お酒好きは家でも水や氷にこだわって飲んでいるんだから、お店でもしっかりしたものを出さないといけない」と言われて。僕もそうだなと思ったので改善していったんです。

店の営業で疲弊する毎日

ーーそこから母親とお店を切り盛りしていったんでしょうか?

手伝い始めて半年ほど経った2002年4月7日、西酒造宝山の会がありました。西社長にお会いし、「一度鹿児島に遊びにきてくださいね」と言われ、気持ちを新たにして店に行ったんです。しかし、その日に母と揉めてしまい、母はお店を辞めてしまいました。

ーーそうだったんですね。そこから倉本さん一人で営業されたんですか?

焼酎に少し興味を持っているだけで、自分で飲食業をやろうなんて何も思っていませんでした。当時子供も三人いたので、転職期間を確保することも難しい。その時は財布にも数百円しか入っていないし、仕入れもできない。どうしようかと押し入れをあさってみたら、焼酎の箱に隠したヘソクリが二万円出てきて。それで冷奴、お漬物など簡単なものを買い、初めて一人でお店に立ったんです。足が震えていたのを今でも覚えています。

営業すると、母目当てのお客様がたくさん来て、訳もわからずどんどん入れてしまう。そうするともう回せないし何もできない。パニック状態です。でも酒代、家賃もかかってくるのでとにかくお金を稼がないといけない。

ーー想像を絶する状況です。 

もう来なくなる人もいましたが、応援してくれる人もいて、お客様や他の飲食店の方を紹介してくれました。死ぬつもりではじめたお店なので、僕も朝まで一生懸命やっていたら、一カ月で10kg痩せました。私の身長は167cmなのですが、当時の体重は48kg。本当に必死です。それでも否定してくる人もいたし、できるわけないといった声も耳に入ってきました。ストレスがすごくて、眠れないし食べれない。でも意地になってとことんやり切って死んでやろうと突き進んでみたら、本当に死にかけました。

一人で店を切り盛りはじめた時の倉本さんの写真

鹿児島の人々、そして焼酎に救われた一年間

ーーそんな中、焼酎の世界により深く入っていくきっかけがあったのでしょうか?

一人でやりだしてから二ヶ月後の6月、鹿児島コセド酒店さんの地焼酎の会があると松尾さんから声がかかりました。蔵元さんや地元の方、全国からの飲食店や焼酎ファンが集まって飲むと。しかし、店の状況的に行けるわけがない。松尾さんに現状を伝えると「そうだね。また来年にしなさい」と言われて話が終わりました。でもそこから一週間、写真でしか知らない蔵、鹿児島の風景が頭から離れなくなったんです。よくよく考えると来年お店は残ってないだろうし、そもそも自分が生きているか分からない。そこで妻に「鹿児島行かれへんやんな?」とつぶやきました。すると妻は「このままいけばお店も潰れるやろし行ってきたら」と。「店の支払いとかは待ってもらったらええやん」て。

そして鹿児島へ向かい、蔵見学、地焼酎の会に参加したんです。皆さん本当に温かくて「遠くまでよく来てくれたね」「焼酎をありがとうね」と声をかけてくれるんですよ。当時はまだ焼酎ブームの前だったので、「なんで大阪で焼酎するの?」と不思議がられるんです。そこで松尾さんとの出会いや自分の身の上話をすると「そうか。じゃあこれからは君のためにも焼酎を造るから、来年この場所に帰っておいで」と言ってくれて。その瞬間、すごい勇気が湧いてきたんです。そこから何があっても一年間生き抜いて、翌年も再びこの会に参加することを目指して走り抜きました。

初めての鹿児島でお土産として購入した西郷隆盛像 芋焼酎が入っていた

そこから一年後、同じ会に参加すると「また会えて良かったよ!」「よし、これからまた一緒にやれるな!」「君のために造った焼酎がこれだよ!」と声をかけてもらい、一緒に乾杯できました。その時、一生をかけて焼酎に恩返ししようと決めたんですよ。ビビっとひらめいた感じですよね。焼酎業界に人生をかける!どんな形になるか分からないけど、生涯をかけてやっていこうと思ったのがその日でしたね。

ーーその時に今のいぐれっくの原型ができたということですね。今でも鹿児島へは足を運んでいるのですか?

当時は年に一回しか行けませんでしたが、徐々に年二回、三回と増えていき、多い時には年五回程度蔵へ行くこともありますね。蔵人の顔を見に行きたい、顔を見せたい、会って話もしたい。今はどんどん蔵の世代交代も進んでいますし、お世話になった親御さんだけでなく息子世代にも恩を返したい。

それに、飲食店でいくら焼酎を説明しても限界があります。ある日一人のお客様を誘って一緒に鹿児島に行ったんですよ。そしたらどんどん人数も増えていって、これまでに同じ人も含めて200人以上は鹿児島に連れて行っていますね。現地で聞いたこと、見たことを通じて一杯の価値を高めてもらいたいという気持ちもあるんですよ。

お店では実際の作業などを写真を使って説明する

スペックよりもスピリットが大事

ーーお店では焼酎普及のためにどういったことを気にされていますか?

焼酎がもっと広がるためには、飲食店が頑張らないといけないと思うんですよ。農家さんは質の高い原料を作り、蔵はさらにうまい焼酎を仕込む。そして酒屋が仕入れて流通を支え、飲食店でしっかりと美味しく提供する。
ここは小さなお店なので、一人ひとりを積み重ねていくしかない。そのためには提供方法も大事です。例えば、うちのお湯割りはお湯で割らず、水割りしてから黒千代香(くろぢょか)で温めるんですよ。混ぜながらゆっくりと時間をかけて温めます。僕の中では「焼酎がやけどをしないように」というイメージです。提供するカップやおちょこもお湯で温めておくことで、飲む時に温度が下がりません。

手前が黒千代香 奥の酒器は芋以外を湯煎で温めるために使用する

お湯割りの場合はカップに入れたお湯をマドラーで混ぜながら、ゆっくり流れに沿って入れていく方法もあります。なめらかにお湯と焼酎が出会うことによって、すごく美味しい焼酎が仕上がるんです。黒千代香などがない飲食店やお客様には、こういった入れ方もおすすめしています。

焼酎は簡単と思われやすいですが、日本酒やワインと違い氷や水、お湯などで「足していく」お酒です。そのため使用する氷や水の質、温度の違いによって味わいが変わってしまう難しさがあります。焼酎は飲食店の人や環境に左右されやすいんです。カクテルはプロが作ると美味しいイメージがありますが、焼酎もそのような要素を持っています。一酎入魂の心で、うまい焼酎を提供したいですね。

また、最近はお酒自体のスペックに注目が集まりますが、やっぱりマインド面が重要。スペックよりもスピリットですね。

カウンターには交流の深いさまざまな本格焼酎が並ぶ

ーーTWSCの審査員もそうした活動の一環になるのでしょうか?

そうですね。コセド酒店を通じてTWSCから依頼があったのが2020年です。ずっとお店を通じての活動が多かったので、こうしたオフィシャルな活動でお役に立てることが本当に嬉しいですね。

焼酎は世界で売れないと言う人も多いのですが、ジャパニーズウイスキーや日本酒、和食などは通用しています。世界市場で焼酎がわずかしか目立っていない理由は、今まで伝える人がいなかったからだと思うんですよ。伝えて売れなかったら仕方ないですが、まだやっていない。だからこそこの先の可能性は十分にあるんです。

ですが急激に人気が高まると花火のように瞬間的に終わってしまいます。だから徐々に焼酎のうまさと可能性、認知度を高めながら市場に浸透させることが重要だと思っています。

TWSCの審査員任命証とガイドブック

焼酎に救われた人生、焼酎人としての人生を全うする

ーー今後のビジョンを教えてください。

今やっている活動を積み重ねていきながら、お店のお料理や焼酎の提供レベルを上げたいですね。あと、この先若い方にもっと飲んでもらえるようなアプローチを考える必要もあります。

また、個人的な話になりますが、今年の3月3日に末っ子が二十歳を迎えたんですよ。人生の目標の一つであった五人の子供を全員成人させることを達成したんです。これから一層、魂を込め焼酎と向き合える時がきました。この先の人生の半分は焼酎に捧げたいと思います。

それに開店当初はストレスが多く辛かったお店ですが、今では営業後に落ち着いて一人飲みできるお気に入りの空間になっています。お店も一緒に戦ってきた戦友ですしね。

でも、やっぱり自分の想いというのは22年前の6月に集約されているというか、あの日の鹿児島から僕の人生は救われました。焼酎に救われた人生、焼酎人としての人生を全うします。

22年前の自分には勝てないけど「お前は生きるぜ!大丈夫だ!」とあの頃の自分に伝えてあげたいですね。

22年前の写真と同じ店の前で

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